2012年6月24日日曜日

もしも

私が「ふしぎなキリスト教」というタイトルの本を書くとしたら。

”まえがき”

現代社会は、近代から発展してきた西洋的な社会システムがデファクト・スタンダードとなっている状況であると言っていい。そのスタンダードも諸問題が噴出し、解決策のキーワードとして「多様性」「シェアリング」等々が言われて久しい現在、それらもまた決定打にはなりえていない。そうした現在がどういうものであるのか?どう歩むべきか?を探るためにも”過去”をきちんと捉える必要がある。

その過去”西洋的な社会システム”の根幹にあると思われるキリスト教。西洋そのものというイメージのキリスト教が東洋発祥であると無知な私は最近知った。東洋発祥の西洋という「ふしぎなキリスト教」について偏見なく知ることは、”問題解決”の糸口にもなると思えてならない。それは、教条主義的な印象の強いアメリカの福音派を取材したTV番組を観た時のこと。進化論について尋ねられて、当然否定はするのだがその口調は穏やか。「創造科学」を語る口調にも押し付けがましさはあまり無かった。「裁判沙汰」の頃とは隔世の感がある。というより、”その頃”も偏見で”目立つ”ものを全体に当てはめていたのかも知れない。

クリスマスを祝い、ハロウィンに仮装する人々も増えた日本における信仰者の人口比率が1%程度と言われている「ふしぎなキリスト教」

進化論も含めて、自らを否定するかも知れない科学の発展に寄与したとも言われる「ふしぎなキリスト教」

進化論について私見の珍説を披露すると「神の似姿」に進化するよう人間は作られたと解釈するなら、そう矛盾もしないのでは?

 更に珍説:隣人愛を説き、その愛が地に満ちるグローバル・スタンダードを作り上げるはずだったのに、あまり上手くはいってない様に見える「ふしぎなキリスト教」

そんな「ふしぎなキリスト教」を虚心坦懐に見つめる事ができるなら、”現在”をも虚心坦懐に見つめる事ができるのではないか?と思う次第です。


…と、こんな感じで書き進めることでしょう。

0 件のコメント:

コメントを投稿