2012年4月30日月曜日

『天人唐草』山岸凉子

主人公の岡村響子が、子供の頃の奔放な自我を成長と共に抑圧され、自らも楽な方へと意識せず現実逃避している内に、ついには現実と対面せざる負えなくなって”狂気という檻の中で解放される”までを描いた作品。

エンディングで、”解放された”響子がふと「天人唐草…、ううん、それ以外の名前は無かったわ。」と言うシーンがある。
「救いのないギリシャ悲劇のような」といった救いのない物語という感想を持たれることが多い作品であり、上記のシーンを最後に”檻の中”へ閉じこもったとも受け取れる。しかし、所謂良い子が反抗期にガラッとスタイルをかえたりする様に、響子もまた自立するために一般的ではない第一歩を能動的に歩みだしたのではないか?とも思う。最後のセリフには現実逃避ではあっても明確な意思が感じられ、将来的に”檻”から出る可能性、希望のようなものも示唆していると思う。

山岸凉子の”怖さ”の代名詞的作品であるのだが、同時に”救いはないように見えてもある”というメッセージも含まれているのか、などとつらつら考えた番人。

2012年4月24日火曜日

3 tri トリ

”トリ”から連想するのは萩尾望都『スター・レッド』での火星人の世代の呼び名。オープニングとエンディングで重要な役割を担う第三世代(トリ)の兄弟が登場する。

山岸凉子『籠の中の鳥』 は”トリ”と呼ばれる鳥人一族の末裔が主人公。体の機能の一部と引換えに「飛ぶ」という能力を持つ鳥人一族にあって、五体満足な主人公の融(トオル)は飛べない”トリ”であった。

諸星大二郎『鳥が森に帰る時』 はマッドメンシリーズの一編。ノアの方舟がモチーフで、『生命の木』の「世界開始の科の御伝え」同様、諸星による「ニューギニア ガワン族に伝わる歌(不思議な男の歌)」は秀逸。

 ふしぎな男が山の上から
 よぶ声がきこえる
 ふしぎな男は鳥を探して
 いってしまった

 はじめの鳥は黒く
 次の鳥は白い
 はじめの鳥は
 なにももたずに帰ってきた
 次の鳥は
 若葉の枝をもって帰ってきた
 三番目の鳥は
 まだ帰ってこない

 いってしまったふしぎな男は
 二度と帰らない
 おまえの大きなカヌーは
 もう川にはみられない

 箱からとびだした獣は
 森に逃げこんだ
 木登りカンガルーは
 森に住んでいる
 クスクスは
 木の洞にひそんでいる
 極楽鳥は
 こずえで踊っている
 火食鳥は
 繁みにひそんでいる
 バキは
 山の洞穴にかくれている

 ふしぎな男は
 もう帰ってこない
 おまえのつとめは
 その鳥をみつけだすこと
 われらのつとめは
 その鳥の帰りを待つこと

鳥が死の象徴でもあるのは、山岸凉子・梅原猛『ヤマトタケル』や諸星の『孔子暗黒伝』などでも描かれているし、「知恵の象徴」というイメージが強いフクロウは古代ローマやペルーのモチュ文化(100~800年)などでは「知恵の象徴」であると共に「「死の象徴」でもあったそうです。
『孔子暗黒伝』で「鳥は死、魚は生の象徴」と描かれているので調べてみたところ、アジア以外でも魚は一般的に生の象徴であるようです。

そこから番人の妄想は始まり、キリスト教でも魚は生の象徴であるらしいこと、生命の樹もあるし、鳥は死というより死後楽園に向かった魂の象徴らしいこと、トリ(3)に引っ掛けて「知恵」「死」「楽園」の三つを恣意的に脳内抽出した先には「失楽園」が浮かび上がり、『鳥が森に帰る時』の森、モリ(mori)はラテン語で死ぬだったなあなどと、妄想は広がっていったのです。

『スター・レッド』後に萩尾望都が描いた一角獣シリーズで”モリ”というESP能力を持ちながらそれをコントロールできないキャラが出てきますが、番人の脳内では「混乱」「破壊」「死の象徴」と妄想されました。また、『百億の昼と千億の夜』での「”シ”は死」という」記述があったような?

そんなこんなを『鳥が森に帰る時』に当てはめると、死が死に帰る時。死者の魂が生命の根源に帰る時。

長い前フリでこじつけなくとも、死と再生・救済の物語なのですが、先日新郷村の事を”はなれ”な隊長代行たちが話し合ってた内容から刺激されて、久々のブログ更新であれこれ綴ってしまいました。

ということで、新郷村には”大いなる物語”の鍵が隠されているのだ!!と強引に結論付けました。