2012年4月30日月曜日

『天人唐草』山岸凉子

主人公の岡村響子が、子供の頃の奔放な自我を成長と共に抑圧され、自らも楽な方へと意識せず現実逃避している内に、ついには現実と対面せざる負えなくなって”狂気という檻の中で解放される”までを描いた作品。

エンディングで、”解放された”響子がふと「天人唐草…、ううん、それ以外の名前は無かったわ。」と言うシーンがある。
「救いのないギリシャ悲劇のような」といった救いのない物語という感想を持たれることが多い作品であり、上記のシーンを最後に”檻の中”へ閉じこもったとも受け取れる。しかし、所謂良い子が反抗期にガラッとスタイルをかえたりする様に、響子もまた自立するために一般的ではない第一歩を能動的に歩みだしたのではないか?とも思う。最後のセリフには現実逃避ではあっても明確な意思が感じられ、将来的に”檻”から出る可能性、希望のようなものも示唆していると思う。

山岸凉子の”怖さ”の代名詞的作品であるのだが、同時に”救いはないように見えてもある”というメッセージも含まれているのか、などとつらつら考えた番人。

0 件のコメント:

コメントを投稿