2012年5月6日日曜日

諸☆的に(1)

諸星大二郎と橋爪大三郎、名前が”一”違いで、年齢も一歳違い。諸星作品から多大な影響を受けてる番人は、橋爪大三郎の宗教社会学的著作『ふしぎなキリスト教』(未読で抜粋しか読んでないが)への疑問が浮かんでくる。一神教と多神教の違いを以下の様に述べている。

『ふしぎなキリスト教』p63-65

 「神々は、それぞれ勝手なことを考えていますから、彼ら全員のまとまった意思などというものはない。これが、多神教。これ では、神との対話などできない相談だ。(中略)「ひるがえって一神教の場合、Godとの対話が成り立つのです。それは、Godが人格的な存在だから」 「Godとの不断のコミュニケーションを、祈りといいます。」 ふしぎなキリスト教@ウィキ-間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(キリスト教以外の宗教編)より


この文章で橋爪は二項を対立させて、多神教は解離性同一性障害で一神教は統合された人格を持つ一般人であるかのように表現している。と、番人は解釈した。ただ、解離性同一性障害でも橋渡し役の人格が登場することもある事を考えると「対話などできない相談だ。」とまでは言えない。
諸星大二郎も『孔子暗黒伝』でしばしば二項対立を使って”世界”を表現しているが、同時に比較神話学などの要素も取り入れて”世界”が単純ではない事も示している。孔子暗黒伝の終盤、絶対者ブラフマンが対立者(アートマン)ヒラニアガルバの質問に答えるという形で、世界観を表しているのだ。

「オームという純粋音から世界が展開したように、「永遠」と「物」との対話が「世界」なのだ。だから、知るがよい。一なる実在(永遠)の諸相が世界であり、世界は永遠の影にすぎないと…。(中略)

太初においてヒラニア・ガルバ(黄金の胎児)は顕現せり…………

いかなる神に われらは供物もて 奉仕すべき

ヒラニア・ガルバよ 夢を見ているのか?

ブラフマンよ わたしは目覚め おまえと対している
ブラフマンよ わたしは何者で なぜ こうして存在するのか
それとも 存在しないのか

おまえは ヒラニア・ガルバであり 存在する
なぜなら わたしが欲したからだ

ブラフマンよ おまえは何者か どこからきたのか

おまえが 自分がどこからきたか
自分ではいえないように
わたしも 自分がどこからきたか
いうことはできない
わたしは 永遠であり
それゆえに いつでも 存在した

永遠であるがゆえに
時間は 存在しなかった
無限であるがゆえに
空間は 存在しなかった
すなわち 宇宙は 存在しなかった

それは 永遠であるがゆえに
対立者――すなわち永遠でない者を欲した
そして それが 生まれた

永遠でないゆえに
それは 時間を 生じた
無限でないゆえに
それは 空間を 生じた
かくして宇宙が 生まれた
永遠から 生まれた
対立者であるゆえに
宇宙は永遠ではない
かくして 宇宙は滅びるものとなり
宇宙の四段階の
周期が 生じた

対立者アートマンも
永遠でないゆえに
周期的に生まれ
また 滅びねばならない

それは ヒラニア・ガルバとして
成劫に生まれ
アートマンとして
顕現し
カルキとして
空劫にたちあう
そして いつでも
永遠に帰るのだ

それは
永遠から来たり
永遠に帰る

ヒラニア・ガルバ

ヒラニア・ガルバ
何を
夢みている?

世界を…… 」

諸星大二郎『孔子暗黒伝』 より

孔子暗黒伝で諸星大二郎は、ブラフマンを橋爪の言うところの”God”と対応させ、ヒラニアガルバ(アートマン)をキリストに対応させていると思われ、多神教にも一神教的側面があることを表現していると解釈できる。この事を逆に考えると、一神教であるキリスト教も”God”と三位一体であるキリストの存在は多神教的だとも言える。
番人は先日、キリスト教徒の方から「イエスを通して神に祈るのだけれど、直接神に祈りを捧げる表現の時もある。」とお聞きした。橋爪は”直接対話”だけが祈りであるように言うが、概ね”イエスを通した関節対話”も祈りであるようだ。
そして番人の考えでは”God”とイエスは不可分で、”直接対話”の時にも(祈りの言葉には出てこなくても)そこにイエスは存在しており、”間接対話”でも当然”God”は常に存在するのだと思われる。

こう考えると、多神教において(八百万神いたりもするけど)”それぞれ勝手なことを考えてる”神々は”一なる実在(永遠)の諸相”であるけれども”一なる実在”とは不可分で”通じている”。”対話”は可能と考えて良いように思われる。

そうすると一神教と多神教の違いは?

橋爪の”一神教と多神教という大雑把な括りの二項対立設定”自体が間違いであると思えてくるのだが如何?

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