2013年2月19日火曜日

AーA'



雑誌「Newton」11月号に「相手に共感することが苦手な自閉症やアスペルガ−症候群などの「自閉症スぺクトラム障害」の人は、脳内で他者を映す鏡のような働きを持つミラーニューロンなる神経細胞の活性度合いが弱いことなどがわかり、客観的診断につながることが期待され、この細胞をうまく活性化させることができれば、より社会に適応できるようになるのではないか。」とあった。

この記事を読んで連想したのが萩尾望都の一角獣シリーズ『AーA'』。
感情表現や、他者への共感がに乏しい一角獣種。「機械のようで付き合い難い」と思われた一角獣種も、他者と違うテンポやサイクルで「共感」していたのだ。
一角獣種という他者への共感が苦手だったのは普通の人間の方だった。

「共感」が苦手なのは「機能が弱い」からと「客観的に診断」できるようになり、「治療」の可能性が出てきたのは良いことではある。しかし、一角獣種の様に、共感しているにもかかわらずパターンが少し違うというだけで「共感していない」ことにされている可能性は無いのだろうか?

また、暗闇から急に明るい場所へ出ると目が眩み慣れる迄時間が掛かる様に、健常者の表現の方が強すぎて認識し辛い可能性は?

そしてその障害が実は生来は「敏感過ぎた」がゆえに、生き残って行く為機能を抑えざるを得なかったのだとしたら、治療は仇となるかも知れない。

何かで「味覚は子供の頃には敏感過ぎて決まったものしか味わえない。大人になって色々味わえるのは味覚が鈍感になっていくからだ。」という説があると聞いた。

それと、だいぶ前に雑誌の記事で、どこかの大学教授だったかが「私は色弱なのだが、そのおかげで健常者には認知が難しい高温の色温度の差が見えるので、鍛冶職人とか溶接工になった方が良かったかも知れない。」と言っていた。

また、永六輔が長谷川きよしと映画を観に行った時、あれこれ動きや色などを解説してたら「周りに迷惑だし、分からなくなるから黙ってて!」と叱られたそうな。

更に、同じ『Newton』の記事に「霊長類は脳の運動領域と指の運動神経が直接つながっているた器用だとされ、霊長類以外の動物は介在神経を介して間接的につながっているため不器用だとされているが、霊長類にも介在神経は存在する。このほどサルの介在神経の働きを一時的に止めて実験したところ、えさを指先でつかむ能力が低下した。介在神経もまた指先の器用さを保つために必要だったのだ。」とあった。


脳内で他者を映す鏡のような働きを持つミラーニューロンの活性度合いが弱いとされる「自閉症アスペルガ−障害」の人は、必要があって機能制限してはいるものの、健常者が忘れてしまった鋭敏な感覚を保ったまま成長しているのかも知れない。

2012年6月24日日曜日

もしも

私が「ふしぎなキリスト教」というタイトルの本を書くとしたら。

”まえがき”

現代社会は、近代から発展してきた西洋的な社会システムがデファクト・スタンダードとなっている状況であると言っていい。そのスタンダードも諸問題が噴出し、解決策のキーワードとして「多様性」「シェアリング」等々が言われて久しい現在、それらもまた決定打にはなりえていない。そうした現在がどういうものであるのか?どう歩むべきか?を探るためにも”過去”をきちんと捉える必要がある。

その過去”西洋的な社会システム”の根幹にあると思われるキリスト教。西洋そのものというイメージのキリスト教が東洋発祥であると無知な私は最近知った。東洋発祥の西洋という「ふしぎなキリスト教」について偏見なく知ることは、”問題解決”の糸口にもなると思えてならない。それは、教条主義的な印象の強いアメリカの福音派を取材したTV番組を観た時のこと。進化論について尋ねられて、当然否定はするのだがその口調は穏やか。「創造科学」を語る口調にも押し付けがましさはあまり無かった。「裁判沙汰」の頃とは隔世の感がある。というより、”その頃”も偏見で”目立つ”ものを全体に当てはめていたのかも知れない。

クリスマスを祝い、ハロウィンに仮装する人々も増えた日本における信仰者の人口比率が1%程度と言われている「ふしぎなキリスト教」

進化論も含めて、自らを否定するかも知れない科学の発展に寄与したとも言われる「ふしぎなキリスト教」

進化論について私見の珍説を披露すると「神の似姿」に進化するよう人間は作られたと解釈するなら、そう矛盾もしないのでは?

 更に珍説:隣人愛を説き、その愛が地に満ちるグローバル・スタンダードを作り上げるはずだったのに、あまり上手くはいってない様に見える「ふしぎなキリスト教」

そんな「ふしぎなキリスト教」を虚心坦懐に見つめる事ができるなら、”現在”をも虚心坦懐に見つめる事ができるのではないか?と思う次第です。


…と、こんな感じで書き進めることでしょう。

2012年6月21日木曜日

コメント返せないのは何故?

設定がおかしくなってるのかコメント返せないので記事にて返信。

takaraさんこんばんは。

『生きがいの創造』は読んでませんし、臨死体験とは違いますが、昔TVで子供たちに退行催眠を掛けて赤ちゃんの頃の記憶を語ってもらう実験をやってました。3歳以下だと催眠を掛けなくてもお腹の中に居た時に「お母さんが泣いてたのでぼく(わたし)も悲しかった。」と語る子もいました。実験の結果概ね子供たちは「お母さんの子供になりたくて生まれた来た。」のだそうです。その意味で子供たちはみんな礼智なのかも知れません。

お子さんが何歳なのかわかりませんが、今度お腹の中に居た時の事を訊いてみては如何?

おバカですみません。

2012年6月19日火曜日

「ぼくは地球」

吉野朔実『ぼくだけが知っている』第18話(最終章)のタイトル。

子供の頃から「大人」な少年・夏目礼智(なつめらいち)は、小学生4年生の春にクラス替えで個性派ぞろいの組入って、少しずつ「知らない」ことを知っていく。
そんなときに現れたのは、礼智にうり二つの少年・枷島十一(かしまじゅういち)。「ぼくは地球」と語り、自分より頭の良い十一に、礼智は急激に惹かれていくが…
 
浦沢直樹の『MONSTER』 や、古くは倉多江美『かくの如き!!』などにも共通するテーマがあると思う。
 
「どうして死んじゃいけないんだ? ぼくには全部 わかってる 知りたいことはもう知ってる 君もそうだ」
 
そう十一に言われた礼智は”何故か?”を考える。

「地球が死んだらぼくらは困るけど ぼくらが死んだって地球は困らない でも十一 死んじゃってもいいことは知っていても ほんとうのことはわかっていても ぼくは死にたくないんだよ だってぼく 明日の自分が何をするのか ぼくは見たいんだよ」


この物語は「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問に対する回答の一つである気がする。かつて酒鬼薔薇聖斗を「幼き頃の自分」だと思った私、かつてのブログで「なぜ人を殺してはいけないのか?」というテーマを選んだ私は、こんな話を「幼き頃の自分」たちとしてみたかったのだ。

どうしても…

新郷村キリストの墓秘宝館…もとい、伝承館
この写真の伝承館が私にはどうしても↓に見えてしまう。

諸星大二郎『生命の木』より

加えて新郷村の風景も



諸星大二郎創作「世界開始の科の御伝え」

『天地始之事』について『生命の木』で「長崎地方に伝わる、変形されてできたふしぎな聖書の翻訳である」と書いている。

扉絵
 諸星大二郎は昔のインタビューで「連載当時は新郷村のキリストの墓の存在を知らなかった。」と語っている。2006年12月6日に京都国際マンガミュージアムで開催されたシンポジウム「マンガと人類学」。 第二部は諸星大二郎と呉智英の対談。この時にGREEで諸星大二郎スレの一つ(当時は元番人も参加)の主催者が諸星大二郎に直接質問して「世界開始の科の御伝えは創作」との回答を得ている。

”どうしても”諸星大二郎作品と橋爪大三郎の『ふしぎなキリスト教』を比較してしまう元番人。比べる程パクリ疑惑が私の中で浮上する。”ふしぎな聖書の翻訳”と『ふしぎなキリスト教』、タイトルからしてパクリ?

2012年5月6日日曜日

諸☆的に(1)

諸星大二郎と橋爪大三郎、名前が”一”違いで、年齢も一歳違い。諸星作品から多大な影響を受けてる番人は、橋爪大三郎の宗教社会学的著作『ふしぎなキリスト教』(未読で抜粋しか読んでないが)への疑問が浮かんでくる。一神教と多神教の違いを以下の様に述べている。

『ふしぎなキリスト教』p63-65

 「神々は、それぞれ勝手なことを考えていますから、彼ら全員のまとまった意思などというものはない。これが、多神教。これ では、神との対話などできない相談だ。(中略)「ひるがえって一神教の場合、Godとの対話が成り立つのです。それは、Godが人格的な存在だから」 「Godとの不断のコミュニケーションを、祈りといいます。」 ふしぎなキリスト教@ウィキ-間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(キリスト教以外の宗教編)より


この文章で橋爪は二項を対立させて、多神教は解離性同一性障害で一神教は統合された人格を持つ一般人であるかのように表現している。と、番人は解釈した。ただ、解離性同一性障害でも橋渡し役の人格が登場することもある事を考えると「対話などできない相談だ。」とまでは言えない。
諸星大二郎も『孔子暗黒伝』でしばしば二項対立を使って”世界”を表現しているが、同時に比較神話学などの要素も取り入れて”世界”が単純ではない事も示している。孔子暗黒伝の終盤、絶対者ブラフマンが対立者(アートマン)ヒラニアガルバの質問に答えるという形で、世界観を表しているのだ。

「オームという純粋音から世界が展開したように、「永遠」と「物」との対話が「世界」なのだ。だから、知るがよい。一なる実在(永遠)の諸相が世界であり、世界は永遠の影にすぎないと…。(中略)

太初においてヒラニア・ガルバ(黄金の胎児)は顕現せり…………

いかなる神に われらは供物もて 奉仕すべき

ヒラニア・ガルバよ 夢を見ているのか?

ブラフマンよ わたしは目覚め おまえと対している
ブラフマンよ わたしは何者で なぜ こうして存在するのか
それとも 存在しないのか

おまえは ヒラニア・ガルバであり 存在する
なぜなら わたしが欲したからだ

ブラフマンよ おまえは何者か どこからきたのか

おまえが 自分がどこからきたか
自分ではいえないように
わたしも 自分がどこからきたか
いうことはできない
わたしは 永遠であり
それゆえに いつでも 存在した

永遠であるがゆえに
時間は 存在しなかった
無限であるがゆえに
空間は 存在しなかった
すなわち 宇宙は 存在しなかった

それは 永遠であるがゆえに
対立者――すなわち永遠でない者を欲した
そして それが 生まれた

永遠でないゆえに
それは 時間を 生じた
無限でないゆえに
それは 空間を 生じた
かくして宇宙が 生まれた
永遠から 生まれた
対立者であるゆえに
宇宙は永遠ではない
かくして 宇宙は滅びるものとなり
宇宙の四段階の
周期が 生じた

対立者アートマンも
永遠でないゆえに
周期的に生まれ
また 滅びねばならない

それは ヒラニア・ガルバとして
成劫に生まれ
アートマンとして
顕現し
カルキとして
空劫にたちあう
そして いつでも
永遠に帰るのだ

それは
永遠から来たり
永遠に帰る

ヒラニア・ガルバ

ヒラニア・ガルバ
何を
夢みている?

世界を…… 」

諸星大二郎『孔子暗黒伝』 より

孔子暗黒伝で諸星大二郎は、ブラフマンを橋爪の言うところの”God”と対応させ、ヒラニアガルバ(アートマン)をキリストに対応させていると思われ、多神教にも一神教的側面があることを表現していると解釈できる。この事を逆に考えると、一神教であるキリスト教も”God”と三位一体であるキリストの存在は多神教的だとも言える。
番人は先日、キリスト教徒の方から「イエスを通して神に祈るのだけれど、直接神に祈りを捧げる表現の時もある。」とお聞きした。橋爪は”直接対話”だけが祈りであるように言うが、概ね”イエスを通した関節対話”も祈りであるようだ。
そして番人の考えでは”God”とイエスは不可分で、”直接対話”の時にも(祈りの言葉には出てこなくても)そこにイエスは存在しており、”間接対話”でも当然”God”は常に存在するのだと思われる。

こう考えると、多神教において(八百万神いたりもするけど)”それぞれ勝手なことを考えてる”神々は”一なる実在(永遠)の諸相”であるけれども”一なる実在”とは不可分で”通じている”。”対話”は可能と考えて良いように思われる。

そうすると一神教と多神教の違いは?

橋爪の”一神教と多神教という大雑把な括りの二項対立設定”自体が間違いであると思えてくるのだが如何?

2012年4月30日月曜日

『天人唐草』山岸凉子

主人公の岡村響子が、子供の頃の奔放な自我を成長と共に抑圧され、自らも楽な方へと意識せず現実逃避している内に、ついには現実と対面せざる負えなくなって”狂気という檻の中で解放される”までを描いた作品。

エンディングで、”解放された”響子がふと「天人唐草…、ううん、それ以外の名前は無かったわ。」と言うシーンがある。
「救いのないギリシャ悲劇のような」といった救いのない物語という感想を持たれることが多い作品であり、上記のシーンを最後に”檻の中”へ閉じこもったとも受け取れる。しかし、所謂良い子が反抗期にガラッとスタイルをかえたりする様に、響子もまた自立するために一般的ではない第一歩を能動的に歩みだしたのではないか?とも思う。最後のセリフには現実逃避ではあっても明確な意思が感じられ、将来的に”檻”から出る可能性、希望のようなものも示唆していると思う。

山岸凉子の”怖さ”の代名詞的作品であるのだが、同時に”救いはないように見えてもある”というメッセージも含まれているのか、などとつらつら考えた番人。